はるぱり日記

東京パリカのブンガク恋慕 ーー 遙カ成リ巴里 vol. 21

寝ても覚めても、そういえば。

濱口竜介監督の『寝ても覚めても』を、寝ても覚めてもおもいだす、とまではいわないけれど、ときどきおもいだす。そうするうちに気づいたのは、この映画のおもいだしかたが、コンテンポラリーのダンス作品をおもいだすときの感じに似ているようなところがあるということで、この監督には、『不気味なものの肌に触れる』という作品もあったくらいだし、こうした感想は、言うまでもないようなことなのかもしれない。みていてちっともわらえないこの監督の映画について、それでもやっぱりおもしろい、とおもわせるのは、そういうところなのだろう。『ハッピーアワー』でのクラブでの照明にチカチカとした場面をおもいだす。人物たちのおかれたシチュエーションからしてもけっしてすきな場面ではないのに、その場面一つが奇妙なコンテンポラリー・ダンスの作品の断片のようにおもいだされる。たとえば『寝ても覚めても』のクライマックスで子どもたちにボールを投げかえす手を伸ばす朝子のカット、まえにもちらっとかいたけれど、あのうごきはまさに不気味であり、ほとんどダンスのそれではないか。朝子の放つあの笑顔は、ただ踊るよろこびをあらわす笑顔であるかのようにさえおもえてくる。だから物語のなかで、どこか決定的なものにうつるあの場面の朝子のすべてが途方もなく不気味だ。

 

映しだされたうごきが美しいとおもうのとはちがっていて、なんだかわからないけれど、みているうちに、ただただあらゆるうごきがおもしろくなってくる。すぐれたダンス作品をみるときの、あのうごきもそのうごきも、このうごきも、なんだかおもしろくて、それがたまらなくたのしい、そういう感じ。

 

かつてコンテンポラリーのダンス作品をパリのあちこちの劇場で自分なりにせっせとみていて感じていたのは、ちっともわらえないのに、みていてとにかくおもしろいということだった。

 

そして、よくわからないままにダンスの上演時間がすぎると、次作がとてもたのしみになって、みにいくまえからわくわくしていたものだった。

 

濱口監督の映画がひきおこすのはそれににた感じなのだろうか。けっきょくそうやって、なんだかんだといっているうちに、次作がまた、たのしみになってくる。

 

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2011年11月11日 ときどきアイコンでつかってきた絵。

はるかふぇ時間 🍵

 

これまでたくさんらくがきをしてきたようにおもっていたけれど、そうでもないのかもしれない。だから、ボツ子さんとかボツオさんとかそういった呼び方をしてきたひとたちのボツとした絵も投稿してよしとすることにきめた。

この絵はボツではない。

 

ボツでもボツでなくても、だからどうということはないけれど、それでも、そういう区別がどうしてもある。一人でつくって一人で食事をするのに、今夜は上手にできた、とか、今夜はあまり美味しくできなかったかな、とか、そういう独り言をするときの感覚にちかいようなきがする。だけど、インスタにボツにしたらくがきを投稿するときには、それがボツであるということを書き添えるから、独り言といってはすこしちがうようなきもする。

 

              🍵

 

「はるかふぇ時間」という言葉が浮かんだ。これもブログのタイトルによいかもしれない。つぎにまたブログをあたらしくはじめるときのタイトル候補だ。でも、そういえば、このまえのタイトルは「はるぱりじかん」だったのか。似てしまう。

 

 

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2016年11月

どっきり、おとしもの(1)

涼しくなっても暑い日々がつづいていて、ときどき雨もふって、だいたいくもりで、ジムにいきはじめたことで周期のはやまった洗濯もののかわきがおくれをとる。

 

         ☁

 

新学期に回数券をかうのに備えてふつうより高い金額をチャージしたばかりの suica とまだ残高のあるnanakoと図書館カード、まだあたらしいジムのカード、そしてこれまたあたらしい漫画喫茶のカードのはいったカードケースをなくしたとおもい冷や汗をかいた。 

 

         🐈

 

なくすまえに手にしていたカードケースに図書館カードがいつもどおり入っているかを確認してから、予約した本を受けとりに図書館に駅から歩いてむかった。カウンターに並んでいたが、ほかにも本をかりようとおもって以前から気になりながらあとまわしになっていた作家の名前がふとおもいうかんだので、本を検索した。すると別館ではなくそこの開架に数冊あることがわかったので、それをすこしかりておこうとすぐに書棚にむかい、二冊を手にした。二冊のほかは予約の本を受けとればいいだけだ。カウンターに向かおうと、ポケットのなかのカードケースをとりだそうとした。ところがスマートフォンの手ざわりしかない。時間がぐわんとゆらぐような感覚とともに、冷や汗が噴きだした。

 

         📚

 

今朝、ATMによってお金をおろし、suicaにチャージをしたときに、これをなくしたらまずいな、とぼんやりおもったばかりだった。それなのに、どこでおとしたのか、カードケースがない。さっき図書館カードを確認したときのざらりとした布張りのカードケースの手ざわりがよみがえる。落としてから十分ちょっとしかすぎていない。大急ぎで図書館をとびだした。

 

引き返したら、どこかに落ちているのがみつからないか、いや、そんなのみつかることはないのか。いや、なさそうで、ありそうなことか、あるだろうか、どうだろうか。というか、どうしよう。

 

来た道をおもいだす。来た道は、いつも通る単純な道だから難なくおもいだせる。けれども、ぼうっとしていたせいか、来た道の自分の様子をまるでおもいだせない。意識がとんでいたのだろう。意識がとんでいるというのはとても奇妙なことだ。とはいえ、生きた時間のすべてはおもいだせないことなど、あたりまえのことだ。そうかんがえてみておもうのは、おぼえていないというよりも、おぼえることさえしない時間というのがわすれる時間以上にたくさんあるということだ。だけど、おぼえている、というのは、どういうことなのか。意識がとんでいるからといって、その時の記憶がほんとうにないかといったらそうはいいきれないのではないか。あせりながら、あいまいなことをおもう。

 

         🍵

 

なんだかながくなってしまったので、つづきはまたべつの日にしよう。ブログの投稿タイトルに(1)とかいた。だから、そのタイトルの(2)がつづきだ。ああだけど、たいしたオチはつくまい。つづき、かくのかな。

 

 

 

 

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2015年8月27日 クリームソーダ 🍨

不滅のアレグレット、映画のこころ 🎥

 

 

今年にはいってからジャック・ドゥミの映画をひさしぶりにいくつかみて、それであらためてミシェル・ルグランの音楽をゆっくりとたのしむことにもなった。

それでもみていなかった『ローラ』をとうとう、ものすごくひさしぶりにみた。今おもえばまえにみたときにはなにもみていなかったような気がするくらい、ぼけっとしながらみたのだろう。あらためてみてみると、ルグランの音楽がやっぱりすばらしかった。

 

 

youtu.be

 

フィルムに多様な姿で幾度かかぶさるベートベンの音楽はとりわけみごとで、きっぱりとしていてやさしい、そんな人たちばかりの登場するこの映画がうちに秘めている、映画のこころのようなものが、まるでその音楽に魔法をかけられたかのように、うつくしくゆらめいてみえる、そんなきがした。

 

 

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2016年9月18日 三コマまんが

おさないころの

 

ぼんやりとラベンダーの香りと表記されたスプレー式のルームフレグランスを購入したのは、やけにてごろな価格だったからだった。ぼんやりとかいものしたりするものではないのはだれにとってもだいたいそうなのか、ともかく、じっさいたのしみにしていたそれを、さらりと読んだ指示にしたがって、ひと吹き、ふた吹き、み吹き、よ吹き、部屋のくうにスプレーしてみるまで、自分がなにを買ったのか、よくわかっていなかったことに気がついた。たしかにラベンダー風の香りがするにはする。けれども、それにあわせてべつの香りがする。そうなってはじめてスプレー式というか、霧吹きのようなかたちをしたルームフレグランスのラベルをみると、「消臭・除菌」とかいてある。ピュアなフレグランスではないのであって、価格がてごろなわけだった。ラベンダーの香りを背後からのみこむようにやってくる香りは、「糊」のにおいだった。糊のにおいはおさないころの、ほとんどおもいだせない、とおい記憶に共鳴する。ふしぎな気分になる。

 

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2016年9月12 

これまでのいろんならくがきも投稿することにきめた🍥

 

らくがきをちょいちょいするのようになったのは二〇〇八年年の十月末にひさしぶりにおもいたって数枚かいて以来だ。今は二〇一八年だから、あいだにほとんどなにもかかない時期は多くあるにしても、十年が経つことになる。

 

そのまえにも、だれかにかくメッセージにちょっとらくがきを添えるようなことはしていたけれど、いつのまにかに、らくがきするきもちがきえてしまった。たぶん二〇〇〇年ごろには、らくがきはほとんどしなくなっていたとおもう。

 

二〇〇八年というのは、パソコンを前にじっとして過ごす論文執筆のための作業をしていたころだ。わたしはパリの五区でのアパルトマン暮らしをすでにはじめていた。狭い部屋に大きなテーブルを置いてデスクとし、食事もその上で席を変えてした。背後にはベッド。暮らす場所がまるごと書斎だった。

 

パソコン作業の合間に、息ぬきに四角いポストイットを、MacBook Proトラックパッドの右サイドのスペースにはりつけてらくがきした。らくがきする気になったきっかけはまるでおもいだせないけれど、そのときかいた絵は残っていてどこかにしまってあるし、よく覚えている。ポストイットは、まえに住んでいた人が部屋に残していったものだった。業務用のようにたくさんあったので、捨てずにそのまま使うことにした。黄色いポストイットだった。

 

ブログの更新が滞らないように、以前かいたらくがきもどんどん投稿することにしようとついさっき、おもいたってきめた。

 

二〇〇八年から今日まで、わたしの絵は変化している。

 

ちょいちょいらくがきはしてきたけれど、絵の練習をちょっとでもしようとおもったのは、今年がはじめてだ。

 

ふらんす』という白水社の月刊誌に自分のかいたものを載せてもらえるようになって、とってもちいさく載せてもらっているだけだけれど、もうすこしうまくなって、イラストレーターみたいなことをしてみたい、なんて、隠しておいた欲がでたのかもしれない。

 

でも、絵の練習はむずかしい。けっきょくなんとなくかいておわりだ。

 

なんとなくかいておわり、というのにすこしなにかを加えながら、これからも、らくがきくらいしつづけたい。

 

 

 

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2012年10月12日

このひとたちは果たしてどういうかんけいで、なにがあって、どういうことになって、こんなふうにしているのか、いろいろおもいをめぐらせることができるから、すきな絵。

 

 

べらべらなるままに🍥

日々、あれやこれやと感じたり、すこしはなにかをかんがえたりで、頭のなかを言葉が渦を巻いているけれど、そんな言葉のことなどおかまいなしに時間は消えるようにすぎていく。だいたい夜中の二時頃になると、一日が二十四時間では足りないとおもう。毎晩、おなじことをおもう。

 

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鈴木卓爾監督の『ゾンからのメッセージ』をみてしばらくたったのに、その映像(というかゾンスコープで見える空)と音がぴったりと重なったかのような奇妙な「音・イメージ」がわたしの記憶の空にちかちかとはりついていておかしい。さらに加えて、濱口竜介監督の『寝ても覚めても』をみてから、これまたしばらくたったのに、ヒロイン朝子が終盤で、子どもたちにボールを投げかえすのに腕を伸ばしたときの、見るものが面食らうようなあかるい表情がやたらとフラッシュバックしたりする。

寝ても覚めても』のつぎは、いそいで三宅唱監督の新作へと向かおうというきもちがもちろんあったけれど、よくあることで、予定がかわった。


すこし「今」から離れたくなるのかもしれないし、ちがうフィルムの画面がみたくなるのか、たんにある種のつかれを感じたのか、理由を説明する言葉をきちんとみつけていないし、うまいことはいえないのだけれど、ともかく、いったん息継ぎをしたくなった。


だから予定をかえてフレデリック・ワイズマン監督の映画をみにいった。自分としては、これは完璧なながれ。長い作品ばかりのワイズマンで息継ぎとはヘンな言い方だけれど、ひさしぶりのワイズマン、三作品くらい見たら、いちいち感動しすぎて、あらたに言葉が渦を巻く。ワイズマン監督作品は全作で四十本ということだ。時間をかけてぜんぶみたくなる。

 

三宅唱監督の新作というのは『きみの鳥はうたえる』、これももちろんたのしみだ。この監督の映画は、みるまえから、なんともいえない穏やかなきもちになる、といっても、まだふた作品しかみたことがないから、そういうような気がするということだ。ぼちぼちみにいかないと、うっかりみのがしかねない。

 

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映画ってほんとうによいものだ。

 

            🎬

 

すこしまえに石田祐康監督の『ペンギン・ハイウェイ』というアニメーション映画をみた。『ゾンからのメッセージ』と『ペンギン・ハイウェイ』には似たところがあるようにおもった。だれも賛同しないかも知れないけれど。『ゾン』は空が世界の裂け目で、『ペンギン・ハイウェイ』は海が世界の裂け目で、一方が一方に呑みこまれるしかないおもてと裏の構造で、両方を生きることはぜったいできないから、『時をかける少女』のようにはいかない。リヴァーシブルな世界の構造に、行き場をなくしたわたしたちの二十一世紀を感じる。

 

『ペンギン・ハイウェイ』のような映画は、たくさんの少年少女にみてほしい。細田守監督の映画がわりともてはやされて、すきなひともおおいようだし、わたしも数本みたけれど、すくなくともその数本とくらべると、わたしは『ペンギン・ハイウェイ』のほうがずっとすきだとおもった。

 

新海誠監督の『君の名は。』の神木隆之介の声優の仕事がたかく評価されてたのが記憶にあたらしいけれど、石田監督の『ペンギン・ハイウェイ』の西島秀俊の声の活躍も、出番は比較的すくないけれど、みごととおもえた。

 

 

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