はるぱり日記

東京パリカのブンガク恋慕 ーー 遙カ成リ巴里 vol. 21

2019年 あけましておめでとうございます◯

ブログはまだつづきますので、今年もよろしくお願いいたします。 

 

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動物がかけないのですが、動物のおきものならかけるかな、とおもい、かいてみました。

 

 

今年もよろしくお願いします、とみずからの心身にもいっておいたほうがよいような、そんな年頃になったのかもしれません。

 

今年はひろい場所を飛翔していたいような、そんなきもちです。

ほんとうのマイペースを、そろそろみつけてもいいような、そんなきもちもあります。

 

去年ぎゅっとしぼって固まってしまった脳みそやこころの襞が、ふわ〜っとひらいてぼわ〜っとひろがっていく、そんな予感がしたりもします。

 

文学死 ★

リルケは書く“ 動物の目を通し

外のものを知るしかない”」
     J-L. Godard, Adieu au langage

 

リルケ〜の上記二行および以下のイラストにつけたキャプション(PCはカーソルをのせ、スマホは長押しします)はすべてゴダール『さらばランガージュよ(さらば愛の言葉よ)』(2015)の字幕から。ゴダールの引用からの引用、というと、ベケットみたいだ。

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さいきん学校で文学を教えなくなるというニュースが入ってきて、まいにち大学の教壇に立ち学生を前にしている非常勤講師の立場からいろいろおもうことはある。

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ところで、いろいろとおもっているうちに、そういえば、とおもいだしたことがある。

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国語の教科書にすてきな作家たちの文章が綴じ込まれているのが苦しくて、あるページをすくいたい一心で教科書から引き剥がしたことがあった。本から引きはなされたページが憐れで、自分の試みが失敗したことにすぐ気づいた、そんなことがあった。自分にはなすすべもないという感じ。絶望的な無力。高校三年のおわるころだとおもう。

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わたし自身はそれでも、家に本があるような家庭ではなかったから、教科書のなかでブンガクに何度かであったのだとおもう。新海誠のアニメ映画そのものになってしまうけれど(かれは少し上だがそれでも同世代の感覚を持っていて、文化的に空疎なものの体験を自分と共有しているとおもっている)、なんといっても森鴎外は衝撃だったし、それまでのアメリカかぶれをかなぐりすてて、日本文学しかないとおもいこんだ。

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そんな、とにかくものを知らないわたしは、大学受験も終盤になって、去年おなじクラスだったなんとかくんは「ドイツブンガク受かったんだって」なんて耳にすると、ぎょっとしたものだった。自分がブンガク・イコール・日本文学、とおもいこみつつ、受験勉強のやりかたもわからないまま、高校の世界史の先生が好きだというだけの理由で得意な日本史ではなく苦手な世界史を選択し、ぼうっとしているうちに私立受験に連敗しつづけていたところで、「ドイツブンガク」という語彙が飛びこんできたのだ。「ドドドド、ドイツブンガクって、どういうこと!?」 と小さい眼を目一杯まるくしていたにちがいない。そしてものを知らない自分に絶望した。おもえば、あのころのわたしは、カポーティもしらないオードリー・ヘプバーンアメリカと大正から明治期にあたるほんの少しの日本文学しか知らなかったのだった。フランス文学の学部に入るなんていう発想があるわけもなかった。

何の話をしていたんだっけ。

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教育現場から文学が消えつつあるというニュースのことだったかな。

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このままいくと、格差社会の上位のスノッブなたしなみとなって(というか、それにもどって、というのかな)、やがて、21世紀の『蟹工船』がうまれるのかな。

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まあでも、教育政策はコロコロ平気で変わるから、教育的配慮なくあらゆる政策がこれからも決定しては、手のひらを返したように、変更されたり、なかったことにされたりして、子どもたちはそのなかで生きて、あっというまに大人になるんだろう。そのなかで、幾世紀たっても、やっぱり書かずにはいられないひとたちが、あらわれるのだろう。そんなかれらは、マイノリティーとして、差別されたり、排斥されたり、追放されたりするようになるのかな。そうではなくても、生きづらいな〜、とかおもいながら、文字を並べて生きていくのかな。

幾世紀もが過ぎたそのさきの書くという行為は、どいういうかたちをとっているのだろう。

     ☆

文学とかブンガクのことをかんがえるときに、いつも記憶にまとわりつくのが、栗原裕一郎さんの文学嫌悪だ。このかたは、たぶん『文学嫌悪』というようなタイトルですばらしい本をつくれるとおもう。でも、かれが嫌いなのはブンガクじゃなくて文学業界なんじゃないのかな。でも、栗原さんは、こんなことをいったら、もっと皮肉な言葉を返してくるのかもしれない。

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そうだ、来年は「文学死講義」について考えようか。

 

 

 

 

としのせ ✏

たぶん帰国から七年目にして、いちばんおだやかな年の瀬だとおもう。

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昨年は、秋になるころからマイコプラズマ(これはあとでわかったのだけれど)にインフルエンザ、そして気管支炎で、さんざんな状態でそのまま年末に突入した。

体調不良から授業だけで精一杯で手つかずだった年末締め切りの原稿を、年越しを挟んで一気に書きあげたのだけれど、これはいけなかった。引きうけた以上、辞退はできないとおもい、このさい、大学院などではぜったい許されないようなスタイルで、とにかく書きすすめてとにかく書きおえた。われながら凄まじい勢いだ。少なめに書けばいいのに、バカみたいに書いてしまうのだから、自分自身はバカみたいをとおりこした感じに陥る。躊躇したら一行も書けない気がしてくるから、スタートから開き直ることにした。乱暴なことをいってしまうけれど、書いて出したからそれはよかった。

だけど、乱暴なことをやったのはやっぱりよくなかった。

けっきょく、一年かけて、じわじわと、なんであんな文章を出してしまって平気だったんだろうというきもちが襲ってくる。おもしろいところがたくさんあるのに(と自分では今でもおもっている)、スタイルだけではなくて、内容もけっきょくメチャクチャなところがあるせいで、堂々とひとに見せられないものになっていた(こっそりとなら、見せたいのだからどういうことなんだろう)。

 

それにしても web に掲載されてしまっていて*、書くということはおもしろいことだな、とおもう。もう二度とあんなふうに書いちゃダメだ、と言い聞かせつつ、一度きりでも、あんなふうに書いてしまえてよかった、なんておもうのだから、図々しい。とにかく辛い年越しだった。咳はけっきょく三月、そして新年度がスタートするころまでつづいたのだった。

 

この十二月には、ひさしぶりに雑誌への原稿を書いた。来年に発売のもの。十分には書けなかったけれど、書く機会があってとてもうれしかった。

 

何にせよ、活字になるものに書かせてもらえるのは、やっぱりよろこびだ。

 

来年もかくしごとがまたありますように。

 

そして、自分でも何かを書けますように。

 

*昨年末に書いた論文、自分でリンクを張って紹介しているのだからそらおそろしい💧

parisian-thoroughfare.hatenablog.com

 

 

 

 

 

ほろよい師走(1)

十一月は、はじまるとともに風邪をひいて、日々の授業をこなすので精いっぱい、半分は、容赦なく不調がつづいたけれど、これまでのように長びいては、もう身がもたないとおもい、とにかく早く治るように、生活のあれこれについて、これまでとはちがう選択をした。だから、十一月の後半になると、かなりよくなってきて、ほんとうにうれしい。

 

風邪をひいたら、けっきょくよいことは一つもない、とおもう。

だけど、風邪をひいて仕事を休んだ日に、みようとおもってDVDを用意していたジャン・ルノワール監督映画をみたのは、やっぱりよいことだから、風邪をひいたって、よいことは一つくらいはあるのかもしれない。

 

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            パリは石畳のムフタール通りのおもいで

 

そのとき見たのは『ゲームの規則』と『どん底』、どちらもすばらしかった。いやでも、『ゲームの規則』はいわば「(はん)パナイ」のでした。ルノワール本人が出演しているのだけれど、それがこのうえなくチャーミング。ともかく、『ゲームの規則』の破天荒なすばらしさは、野崎歓氏がDVDの冊子にもしっかりかいて、おりました。

 

映画の破天荒というのはほんとうに心をうちます。

 

ところで、わたしはエルンスト・ルビッチという破天荒の代表みたいな監督がとにかくだいすきなのだけれど(もっとも小津監督のパンク映画にはやっぱり敵わないかも知れない、いや、そんなことは、まあどうでもいい)、なにがすきって、映画的破天荒がだいすきなのだ。小津監督、しかり、でしょう。

 

ルビッチ監督の映画は、みるたびに忘れるのに、みるたびに、どんどん好きになる。au fur (et) à mesure という表現がフランス語にあって「お・ふゅーる・あ・むじゅーる」と読むのだけれど、ほんとうに、読めば読むほど好きになる。一緒にいればいるほど好きになる人っていうのもいるけれど、やっぱり相性というのは、なにが相手でもあるのだろう。ちょっぴりそれにはかなしみもともなう。かなしみをしらない愛はないよね。

 

十二月の映画といえば、ベタでも何でも、天使の映画、フランク・キャプラ監督のIt's a Wonderful Life 、パリにいれば、この時期ならば、だいたい映画館で見られる名作中の名作、これだって破天荒な映画だろうけれど、ついでにもうひとつ、ついでというか、ほんとうにだいすきなクリスマス映画の名作、The Shop Around the Corner このなんでもないような粋なタイトルに何度でもシビれるわけだけれど、邦題は『街角 桃色の店』、ひさしぶりにみたいなぁ。スクリーンで、みたいなぁ。

 

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 というわけで、たまにはほろよいでの投稿、あとで問題があったら削除・訂正いたします。ご了承ください。

 

本題にはいるはずが、ギヴ・アップでした。

 

 

ほろほろ四月😊